鍼は釣りのようなものである
「六韜」の第一巻「文韜」に文王が太公望に語りかける有名なくだりがある。
文王:「あなたは魚釣りを楽しんでいるのですか?」
太公望:「君子はその志を得ることを楽しみ、小人は物を得ることを楽しむ、私が今魚釣りをしているのは君子のそれに似ているのです。」
中国で太公望といえば下手の横好きという意味で用いられるが、日本では釣り好きを指す言葉として知られている。どうも悠々自適・のんびりといったイメージがあるようだが、ボーっと釣り糸を垂れているだけでは、なかなか釣果は望めないのが本当の所である。
これは前回に引き続き、王羲之「蘭亭序」(353年)の中の王彬之(おうひんし)による詩である。
鮮葩映林薄、游鱗戯清渠
臨川欣投釣、得意豈在魚
川に来て釣りを楽しむが、魚ではなく、意(こころ)を得ることにある(意訳)。上記の太公望の言葉と重なるところもあり、この当時から、このような感覚があったことは、興味深い。
さらに、作者不詳の中国のことわざ(「オーパ」開高健)
一時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい。
三日間、幸せになりたかったら結婚しなさい。
八日間、幸せになりたかったら豚を殺して食べなさい。
永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。
釣り好きにとっては、心強い言葉であり、多くの人がブログなどでも引用されている。
さて、前置きが長くなってしまったが、「釣り」と「鍼」との関係について述べたかったのである。人生を山登りや航海に例えるように、鍼の手技(操作)を釣りに重ねて述べる先人は少なくない。「鍼は釣りのようなものである」といわれるが、受け手によってさまざまに類推がされる。あまり、釣りをしたことがなければ、子供の頃、キャンプで経験したます釣りを想像するかもしれないし、近所の釣り堀かもしれない。また、テレビ番組の大海の青物をイメージするかもしれない。別々のことを想像していながら、なんとなく分かったような共有感があるところがまた不思議である。感覚を言語化する難しさであり、認知のあいまいさの部分といえるであろう。
鍼灸の文献としては竇漢卿(1195~1280年)「鍼経指南」(1295年)の中の「標幽賦」に見ることができる。
…氣之至也,如魚吞鉤餌之沉浮;氣未至也,如閑處幽堂之深邃。
ここで、釣り人なら誰しも思う疑問としては、いったいどんな魚なのだろうかということである。魚によって釣趣は異なるからである。鋭いアタリなのか、もたれる感じなのか…。三段引きといわれるマダイはスコーンとくるし、カワハギはカンカンカンとしたアタリであり、シロキスはプルプルッといった表現になる。ベテランになると竿に伝わるアタリによって、魚種をあてることも可能である。おそらく、出身からして川魚であろうが、閑處幽堂との対比から考えてかなりハッキリとしたアタリなのではないだろうか。想像は色々と膨らみ、予定のない中国での釣行を夢見ているわけである。
(写真:中国のとある川)
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