鍼灸鷄肋ブログ

鍼灸に関する内容や日々の出来事を紹介します。世田谷区祖師谷「鍼灸指圧自然堂」から発信しています。

鍼灸抜萃に学ぶ その五

金元医学の影響について 後編

後世派の系譜

15世紀には金元医学は日本に伝来していたとされる。そして、江戸時代初期には後世派(李朱医学)が隆盛を極めていたようだ。富士川游「日本医学史綱要」から引用して以下に紹介する。本邦における李朱医学のキーマンは田代三喜・曲直瀬道三である。

金・元の医学はすなわち李・朱の医学にして、室町時代の末期、田代三喜、明より帰りてこれを唱導したれども、三喜関東の僻地に居りしがために、ついにその学を天下に弘むるに至らず。戦国時代よりして統一時代に移るの時に際して曲直瀬道三出でて、三喜の学を伝え、京都に帰り、輦轂の下にありて生徒を集め、著述を公にし、かつ大いに治を施したるがために、李・朱医学は始めて大いに我が邦に行なわるるに至れり。

曲直瀬道三を始祖とする道三流はその後継者である玄朔によりさらに発展を遂げる。玄朔は、李朱医学に偏執することなく次のように述べている。このようなスタンスは理にかなっていると思われるが、後に古方派より批判されることとなる。

広く内経を閲し、普く本草を窺ふ。診切は王氏「脈経」を主とし、処方は張仲景を宗とす。用薬は東垣を専とし、尚ほ潔古(張元素)に従ふ。諸症を治弁するには丹渓を師とするも尚ほ天民に従ふ。外感は仲景に則り、内傷は東垣に法り、熱病は河間(劉完素)に則り、雑病は丹法に法る

李東垣の内傷弁証体系から内傷と外感の概念が生まれ、「外感は仲景にのっとり、内傷は東垣にのっとる」と言われるようになる。上記にもその記載がある。
さらに、安土・桃山時代の医学に於ける鍼灸科の動向を記す。

この期に至りて鍼科専門の名家を出だし、入江・吉田の諸氏あり。ともに明人の鍼術を伝えておのおの一派をなせり。
入江・吉田の両氏に次ぎて御薗意斎あり。鍼術を以て名あり。金銀の性温柔にして人体に適することを知り、初めてこれを以て鍼を製し、また小槌の形円くして扁なるものを作り、これを以て鍼頭を打ち徐々に膚肉の腠理より打入するの法を施したり。世にこれを意斎流の打鍼と称す。
同時に無分斎というものあり。また打鍼の術を以て顕われ、夢分流鍼術の祖たりという。

御薗意斎と無分斎は別人である。この辺の関係はややこしい。「鍼灸抜萃」補瀉迎隨之事の段に次の記載がある。「鍼灸抜萃」は著者不詳であるが、無分斎との関係はいかに…?

予が刺す處の鍼は本邦鍼家の祖。無分の末流なり。病の頭に在るも又腹に於いて刺し。病脚にあるも、腹において刺す。一身の病すべて腹に於いて刺す。

古方派の系譜

名古屋玄医(1628-1696)は復古を志向し、張仲景・巣元方を師と仰ぎ、李朱医学を批判するようになる。その学説は「百病みな風、寒、湿より生ず。これを細かに別つときは風、寒、湿の三気なれども、総言すればすなわちただ一箇の寒気のみ。故に百病はみな寒に傷ぶらるるによりて生ずるものなり」というものである。そこで、臨床では衛気を高めることを主とし、表面に現れた証に注目をした。理論的というよりは、経験と実践を重視した。

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江戸前期、朱子学が学問体系として主流であったが、伊藤仁斎などが実践的手法による古義学を提唱するようになる。古方派もその流れの影響を受けたと考えられる。名古屋玄医はなかなか世に受け入れられなかったようであるが、後藤艮山(1659-1733)の一気留滞論は、その後の古方派の潮流を生むこととなる。

名古屋玄医、医方復古の説を唱えたれども、当時の医家なお宋・明諸家に雷同し、運気分配の説を信奉して、温補の説専ら行われたり。この時にあたりて後藤艮山、群疑集怫の中に孤立して慨然として説をなし、二十年来実詣するところによりて、百病は一気の留滞よる生ず、と唱道したり。

さらに、江戸前期の鍼灸科の動向を下記に引用しておく。日本の鍼の特徴である管鍼は杉山和一、打鍼は御薗意斎が創始とされているので、ここで全て役者が揃ったことになる。

元和二年(1616年)徳川綱吉将軍職に就くや、ただちに令して、鍼術の再興を図らしむ。杉山和一すなわち命を奉じて起ちてその事に任じ、鍼治講習の所を設け、以て諸生を教授し、門人三島安一に至りて、されあにその業を拡張し、講堂を千住、板橋、新宿、品川その他諸洲四十五箇所に増設し、鍼術を業とするもの、皆ほとんどその門に出ず。いわゆる杉山流鍼科これなり。

日本医学史綱要 1 (東洋文庫 258)

日本医学史綱要 1 (東洋文庫 258)