鍼灸鷄肋ブログ

鍼灸に関する内容や日々の出来事を紹介します。世田谷区祖師谷「鍼灸指圧自然堂」から発信しています。

鍼灸抜萃に学ぶ その十

鍼術の手法(3/4)

管鍼(くだはり・かんしん)

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 撚鍼は手法得難し。打鍼は沈痾に至ておよびがたし。且(あした)に鍼にこころざし有って夕べに道にいたるは管鍼にしくはなし。まなびやすくして鍼を下すに痛まず、病人の精気衰へず。手法は左の手にて管を穴の上に当て、鍼を管に入れて右の食指を中指の後に重て食指のはらにて鍼じくの管より出たる分をはじき下す。うかがふてはじけば痛むぞ。一(ひと)きほひにはじき下すべし。管の持やうは大指と食指とにて中をもち、中指にて肉を推へ、鍼をはじき下して、管をにく去。右の食指大指にていかほとも撚り下す。下さずして静に撚るばかりにて大方のやまひを治するぞ。霊枢に曰く、鍼大に深き時は邪気反て沈み、やまいいよいよ益すと有るぞ。

「鍼灸抜萃大成」では上記赤字の部分は、「静に弾けば痛みなり。一息をひに弾き下すべし。」とある。鍼の材質や尖端の形状にもよるが、切皮はトントンと柔らかく弾くのではなく、一発で刺入するとの意であろう。

管鍼の寸法あり。管の長(た)け二寸五分。鍼軸一寸穂一寸八分、惣長二寸八分。管より鍼三分ながし鍼の形ち大軆よりすこしふときがよきぞ。細きは鍼の中しはりて鍼口痛ぞ。小兒に用ゆる鍼もほそく軸五分穂一寸二分。管一寸五分。手法右同事なり。鍼の流さまざまおおしといえども、或は理に叶はず。其半(なかば)に効有て半に害在り。或は半にも効あらざるも有るぞ。其中を撰みて、悪を棄て、効有るを書きのするものなり。一文不通の族ら、愚が宏才弁舌を以て自己の我流を立、諸人をたぶらかし、鍼灸をほどこして、人をなやますやから多し。まことに深く慎可哉。やまひを醫するには、醫経十四経并びに鍼灸の諸書を明かにして、而後に治をほどこすべし。

鍼の長さは鍼軸(鍼柄)が1寸、穂(鍼体)が1寸8分とある。尺度は時代により異なり一定していない。手元の資料によると、東漢の時代は1寸が2.304センチ、魏晋は2.412である(霊枢では2.25センチを採用していたような…)。また、明の時代は3.11センチであり、現代中国では3.33センチ、日本は3.03センチである。江戸時代には享保尺というものもあって、3.0363センチとなる。

仮に鍼体の長さを3センチとすると3×1.8=5.4センチ、2.3センチとすると4.14センチとなる。現在の寸3サイズが40ミリ、寸6が50ミリであると考えると寸6に近いサイズであると思われる。

ここでの管鍼の説明はごく簡単なもので、全体を通しても具体的な管鍼の手技の記載はない。「杉山真伝流」には鍼の手技方法が100種類近く紹介されているが、「鍼灸抜萃」の内容からは杉山流の形跡を見出すことはできない(見つかれば修正します)。

(引用文の異体字や旧字について一部変更)

杉山和一ゆかりの地、江の島岩屋

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(海上から望む江の島と富士山)

江の島は古くから龍神信仰の地として栄え、その岩屋は信仰の対象であった。弘法大師源頼朝も訪れたとされている。杉山和一はこの地で管鍼を創案したといわれており、江の島には杉山検校の墓所がある。案内板から一部引用しておこう。

杉山検校は慶長15年(1610年)伊勢国に生まれました。幼い時に失明し、山瀬検校、入江豊明などの有名なはり医に学んでいました。その時に江の島弁財天社に21日の間やまごもりして礼拝し、ついに管鍼の術を創案したといわれています。そして徳川5代将軍綱吉の信任をうけて、江戸本所に邸宅をかまえ、元禄5年(1692年)には護摩堂を建て翌年には三重塔を建てて寄進しました。元禄7年(1694年)に本所の私邸で亡くなり近くの弥勒寺に葬られました。この墓碑は一周忌の命日(5月18日)、次の総検校、三浦安一が造立したもので、分骨埋葬されたと思われます。

杉山真伝流臨床指南

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